佐藤甫(はじめ)は、明治から昭和時代の情報蒐集家で、青島(ちんたお)特務機関で活動し昭和4年(1929年)に青島で亡くなった。戦前にウイグル人地域で3年間生活し、イスラムに改宗してウイグル人との連帯を唱えたという点で特筆すべき人物だった。
1887年に熊本県に生まれ、熊本済々黌に進学したが、しかし、日露戦争が始まる直前の1902年か、03年頃、中退して満州に渡った。彼は、ロシア帝国が極東にまで食指を伸ばしてきたことに対して憤りを覚え、満州からさらにシベリアに赴き、その事情を調査するようになったが、その調査中に日露両国は交戦状態になり、シベリアでスパイ容疑によってロシア官憲に捕らえられて、中央アジア・トルキスタン方面に流刑の身となった。
彼は中央アジアに流刑されたことによって、イスラムの宗教活動やムスリムの人々に接することになり、宗教としてのイスラムに惹かれることになり、ムスリムとなった。自らの名前を「回山」と名乗るようになったが、「回」は「回教(イスラム)」からとったものである。彼は釈放されたが、中央アジアに数年にとどまって、地域の事情を研究した。
日本にいったん帰国したが1915年に陸軍参謀本部の長嶺亀助大尉とともに、現在の中国新疆ウイグル自治区の伊犂(イリ)に赴いた。彼は、イリやウルムチにおよそ3年間滞在して、その地の情報を蒐集した。

カシュガル
佐藤甫などの影響もあって、日本がウイグルと連帯する構想は陸軍内部でも生まれるようになった。1920年代後半に、陸軍大学校校長をしていた林銑十郎(せんじゅうろう)は、次のように述べた。
「共産革命によって帝政ロシアは覆(くつがえ)った。その影響下に、最も隣接したハルハ蒙古(JOG注: 外モンゴル、ソ連の影響下で、1924年、世界で二番目の社会主義国家、モンゴル人民共和国として成立)が独立したが、双方ともに国内整備が完了すれば、思想攻撃は当然四隣に及んでくる。・・・右翼堤防のハルハ蒙古は、もろくも共産陣営に崩れ去ったが、左翼堤防の新疆省方面は、強烈な信仰信条を持つ回教民族だから、容易にその団結は崩れないと思う。・・・回教という特殊な宗教勢力が、中央アジアからトルコに通ずる一線、これは単に新疆だけのものではないところに、なかなか一朝一夕に処断しかねる勢力をなすと思う。」

ウイグルの踊り
このように、戦前日本の軍部は、トルコ民族の良好な対日感情を維持することで、日本のムスリム戦略を検討していく。1930年代には内陸アジアのトルコ系ウイグル族ムスリムの民族主義者によるソ連および中国からのトルキスタン独立のための蜂起を起こさせ、これら2国の動揺を図ったのだった。
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