現在、パレスチナ難民の数は560万人余りで、世界の難民総数の5分の1がパレスチナ難民だ。パレスチナ難民の帰還は、1948年の国連総会決議194号で認められているものの、イスラエルは難民の帰還を一向に認めていない。
他方、地中海では多くの難民たちが命を落としている。「不法移民」と言ってもその多くが経済難民と言ってもよいような人々だ。
不法移民が救出されるチュニジアは、かつてスペインのレコンキスタ(国土回復運動)で追放された多くのユダヤ人が逃れた国だった。フェルディナンドとイザベラのカトリック両王はカトリックによる国造りを目指して異教や異端に対して厳しい姿勢を見せ、1492年にユダヤ人追放令を出した。
当時のチュニジアはイスラムのベルベル人王朝ハフス朝(1229~1574年)が支配していた。ハフス朝は、スペインやイタリアとの交易などで経済的に繁栄し、2代目の支配者であるアル・ムスタンスィル(在位1249~77年)の時代にイスラム共同体の最高指導者である「カリフ」と名乗るようになり、絶頂期を実現し、モロッコやスペインの一部までその支配下に置いた。
この王朝の繁栄の基礎は貿易と農業で、特に良港があるチュニスを首都としたことは、イタリアやスペインなどヨーロッパのクリスチャン商人との活発な地中海貿易を行うのに都合が良かった。14世紀半ばまでにチュニスの人口は10万人を超えるほど発展した。ハフス朝は文化活動にも熱心で、内陸のカイラワーンでは、スンニ派の四正統法学派の一つであるマーリク学派の研究が進んだ。このマーリク学派はユダヤ人に対して他の学派より寛容な解釈を行う。

https://fanack.com/tunisia/history-of-tunisia/tunisia-the-coming-of-islam/?fbclid=IwAR16jBkh_QMmJCWKIZLc4y0v44TN5CAx_ffjSDs4XP6ziyM1UpusvqxGKEI
ハフス朝の時代、ユダヤ人の経済活動は活発になり、ユダヤ人も地中海の交易活動で潤い、また大工、鍛冶屋、石鹸の製造などの職に就くユダヤ人たちも増えた。
16世紀に半ばにユダヤ人を迫害していたスペインやポルトガルがハフス朝に侵攻すると、チュニジアのユダヤ人たちはチュニスなど大都市から南のサハラ砂漠に逃れた。しかし、16世紀後半にユダヤ人にやはり寛容なイスラムのオスマン帝国がチュニジアを支配するようになると、ユダヤ人たち社会・経済的安寧を取り戻した。ユダヤ人たちは土地所有がヨーロッパでは禁じられていたが、チュニジアでは農業や牧畜にも従事していた。

アマゾンより
かつてイスラムはユダヤ人を助け、チュニジアのジェルバ島では、現在でもユダヤ人の祝祭に毎年ムスリムが参加し、互いに宗教的寛容を祝っている。ユダヤ人の国イスラエルがイスラム(少数のクリスチャンもいるが)のパレスチナ難民を排除するのはやはり狭量なナショナリズムの考えによる。イスラエルでユダヤ人たちがかつてのイスラムとの共存に思いをはせれば、パレスチナ難民の境遇にも配慮をせざるを得ないと思うのだが・・・。
アイキャッチ画像はアフリカ最古のシナゴーグでグリバ・シナゴーグの祝祭に参加するユダヤ人とムスリムたち
チュニジア・ジェルバ島
2018年5月2日
https://www.csmonitor.com/World/Middle-East/2018/0514/Tunisia-s-Jews-and-Muslims-join-to-celebrate-religious-tolerance?fbclid=IwAR2WBmU6nfU-1S6KJsCaDCB0f9_Oqi8WhwNgkshHY6stsxVjMnh0bDbPxA0

ブランカ・スアレス
https://ro.pinterest.com/cristiannegrea/beauty/
コメント