エジプトでは、アラビア語は8世紀より行政上の言語であったが、宗教や文化の分野ではそれ以前から用いられていた。1896年にカイロのベン・エルザ・シナゴーグ(ユダヤ教寺院)で発見された「カイロ・ゲニザ文書」は主に11世紀から13世紀の地中海沿岸でのユダヤの人々の生活の詳細を明らかにするものだが、そこではユダヤ人はムスリムと共存し、商業分野では完全といってよいほど自由に活動していて、多くの制約を受けていた北ヨーロッパとは顕著な相違があったことが示されている。

ユダヤ人の言語はヘブライ語だが、ゲニザ文書は、多くの部分がアラビア語で記されていて、アラビア語が非ムスリムによっても広く使用されていたことを表わしている。非ムスリムがアラビア語を学ぼうとする動機は、アラブ・ムスリムの支配階層の行政言語を理解し、学識のある人びとの学術的成果を学ぼうとすることがあった。アラブ人たちの移住、アラブ人と非アラブ人の通婚はエジプトにおけるアラビア語の浸透に貢献した。
ゲニザ文書は30万ぐらいの文書によって構成されるが、11世紀から13世紀のものを主とするものの、19世紀に書かれたものも含まれている。ゲニザ文書の研究には、アラブとユダヤの研究者たちの共同作業が必要で、イスラムとユダヤの共存の記憶を新たにするものであることは疑いがない。ゲニザ文書が示す内容は、現在のイスラエルと占領地の悪化するアラブ・ユダヤ関係を見れば、中世の共存関係は信じられないほどである。

https://www.publicmedievalist.com/arc-of-jewish-life/
イスラム世界に置かれたユダヤ人は被支配層で、彼らが税を納める限りは支配者であるアラブ・ムスリムはキリスト教徒とゾロアスター教徒と同様にユダヤ人を保護する義務があった。ゲニザ文書は、ムスリムとユダヤ人がともに生活し、労働していたことを示している。特に経済分野でのムスリム・ユダヤの共存は顕著で、ユダヤ人たちは市場での商業活動において完全な自由を享受していた。それは、中世ヨーロッパでユダヤ人たちが市民権を剥奪され、政府や軍隊のポスト、またギルドや職業組合から排除されていたのとは対照的なものだ。13世紀の終わりにイングランドでは、ユダヤ人の商業における成功は妬みを生み、国外退去を強制させられた。

ゲニザ文書は、アラブとユダヤ人たちが現在の係争の地であるパレスチナでも共存していたことを示している。7世紀にアラブ・イスラム支配がパレスチナで始まると、ローマ帝国によって離散を余儀なくされていたユダヤ人たちもパレスチナに帰還するようになった。地中海に面するアッコはユダヤ人たちの商業活動で繁栄し、ガリラヤ湖に面するティベリアはトーラー(旧約聖書の中のモーセ五書)の研究と織物産業の町となった。十字軍の侵攻に対してユダヤ人はムスリムとともに聖地の防衛を図り、サラディンが十字軍をエルサレムから駆逐すると、ユダヤ人も彼らのコミュニティーの復興を図っていく。

アマゾンより
ナショナリズムの衝突、イスラム・ユダヤ双方における過激主義の台頭は、共存の歴史の重要性を人びとから忘れさせている。歴史は両者の共存の可能性を教えている。
アイキャッチ画像はゲニザ文書、アラビア語とヘブライ語で書かれている
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