「ダメおやじ」で人気があった漫画家の古谷三敏さんが亡くなった。
NHKの「戦争証言アーカイブス」の中で自らの戦争体験を語っている。昭和20年8月1日の新聞の「敵艦三隻撃沈破 荒鷲沖縄に連日猛威」という見出しを見て、「ウソばっかり書いている気がしますねぇ」と話す。終戦当時8歳、中国河北省の秦皇島の日本人学校2年生だった。八路軍(中国共産党軍)を見た体験を証言している。

https://mainichi.jp/articles/20190903/org/00m/070/001000d
古谷さんが学校に通う際に乗っていた汽車が八路軍に爆破されて、小さな駅で待っているよりも、歩いていったほうが早いと同じ学校に通う子供たちと山を縦走して歩いた。周囲を注意しながら八路軍の姿がなければ歩きつづけた。谷間で数人の八路軍兵士の姿を見たのが最初で、最後の八路軍だった。気づかれないようにした。それ以来八路軍を見たことがない。
古谷さんたちにとって身近の敵は八路軍で、いつ何時彼らが家に侵入してくるかわからないので、家の中にも日本刀、手りゅう弾、ピストルなどが家の中にあった。古谷さんは手りゅう弾に強い関心をもっていた。3個ぐらいがおもちゃみたいにころんと置いてあったが、大人たちは米軍が上陸するという噂に銃刀とともに必死に構えていた。浜辺に機関銃などを出し、米軍の上陸に備えていたという。秦皇島は渤海に面する都市だ。にわかに緊張し、日本人らしくしななきゃいけないみたいな話になった。手りゅう弾のピンを抜いて米兵に抱き着けば僕でも殺せるというような話をしていたのが記憶に残っている。

https://serai.jp/hobby/349611
古谷三敏さんは中国の天津の倉庫で抑留生活を送り引き揚げは昭和20年12月だった。引き揚げ船の底で畳1畳のところに4人ぐらい座っていた。船の中でやかん一杯の水をもらうには夕方までかかった。貨物船は低い天井から人々の息の湯気が水滴となってぽたぽたと落ちてきた。日本に近づくとアメリカの軍艦群が水平線に見えてきた。その量感がすごかったという。1週間の航海で博多に上陸した。上陸して毛布1枚とミカン3個と交換したのを覚えている。

『漫画が語る戦争』(小学館)では真打ち披露が間近な落語家・柳亭円治」の話を描いている。円治が徴兵されると、「二度と出てこねぇ落語家なんだ」と言って、師匠も悔しがる。師匠は「生きて、生きて、帰ってこいよ」と叫びながら円治が出征する汽車を見送った。円治はニューギニア戦線に赴き上官や仲間たちに連日落語を披露し人気を得る。突撃の前日に真打ち披露を行うが、その際の「五人廻し」という遊郭話は聞くものをして本当に遊郭にいるような迫力があったが、客はたったの9人の兵士たちだった。翌日円治は砲弾の破片に当たり亡くなるが手には扇子と手ぬぐいを握りしめていた。




古谷さんの武装した敵兵が家に侵入してくるという話を聞いて、イラク戦争で、米軍がイラク人などの武装集団を探して、イラク人の各家庭のドアを脚で蹴って開けて歩き、それがイラク人の反感を買い、さらに武装集団の活動を活発にさせたことを思い出した。イラク人にとっては敵兵の侵入はどれほど怖かったかだろうか。重装備の米兵たちがやってきた家の中には、フセイン政権時代のイラク軍の元兵士たちもいて、実際に銃などで抵抗した人たちもいた。抵抗した人たちは「テロリスト」として扱われたが、勝手な論理である。古谷さんが感じた市民の恐怖は現在の戦争でも継続している。
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