フランス革命とイスラム世界への影響

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 7月14日は「パリ祭」、フランス革命記念日であったが、旧体制を打倒したこの革命はイスラム世界にも少なからぬ影響を与えた。

https://yamatake19.exblog.jp/240323895/


 フランス革命の「自由」「平等」「博愛」の精神は、元々同胞意識の強いイスラムの宗教意識の根幹に「平等」の原理があることなどによって広く受け入れられ、マルセイユに居住するアルジェリア人やフランスのカリブ海植民地の奴隷たち、フランス領だったセネガル・サンルイ、フランス領インドのポンディシェリやシャンデルナゴル、またインド洋のマスカリン諸島に至るまでフランスに関わるムスリムたちはフランス革命のイデオロギーに同調して支持を与えていった。ヨーロッパ諸国が革命政権に敵対的になる中で、アルジェリアなどからの小麦の支援がなければ、フランスは食糧不足となり、革命はもちこたえることができなかった。

イスラム・フォビアを止めよ
パリ
https://www.aa.com.tr/…/muslim-rights-group-no…/2020182


 しかし、その後、ナポレオン統治下でフランスは、外国人は国家にとって現実的に有用かどうかという物差しの中で見られるようになり、革命後にムスリムに市民権を与えるなどのコスモポリタン的精神は次第にしぼんでいくことになり(ユダヤ人には市民権を与えなかった)、ナポレオンのエジプト遠征やアルジェリア征服に見られたように、イスラム世界への侵出という帝国主義的野心やナショナリズムが革命の理念にとって代わり、現代にも続くイスラム世界やムスリムを卑下するような感情を生み出していった。


 オスマン帝国の貴族イスハク・ベイは、1786年からから革命があった1789年10月までフランスに滞在した人物で、ロシアがクリミア半島を併合しようとすると、愛国的な考えや立場をとるようになり、フランス革命で王政が崩壊する様子を見て、オスマン帝国の改革も必要と考え、セリム3世(在位1789~1807年)の改革を支持するようになった。イスハク・ベイがイスタンブールを離れた頃、オスマン帝国では権力闘争に明け暮れていた。セリム3世は、1793年に初めて西洋式の軍隊「ニザーム=ジェディット」(新しい制度の意味)を創設し、また92年、はじめてヨーロッパ各国に常設の大使館を開設するなど改革を進めていったが、守旧勢力であるイェニチェリ(常備歩兵軍団)やウラマー(イスラム諸学に通じる者)の反発もあって、1807年に廃位され、その後保守派と革新派の対立の中で殺害された。

時代的には異なりますが・・・
https://eigahitottobi.com/article/71764/


 ムハンマド・イブン・アブドゥル・ワッハーブ(1703~91年)はサウド家との同盟とともに、アラビア半島で、フランスの言語学者、医師、翻訳者であったルフェーブル・ヴァルブルンが強調した神の唯一性の下にイスラムの改革運動を起こしていった。オスマン帝国のスルタンはカリフを名乗り、帝国統治の正統性をイスラムに求めていたが、ワッハーブ派の運動はこうしたオスマン帝国の姿勢に反発するもので、「平等」に訴え、奢侈を否定した。その姿勢はカトリック教会が保有していた大量の土地、権力、財産を接収したフランス革命後の非キリスト教化運動に似ていた。この運動はジャコバン派独裁政権が推進していたが、1794年にオーストリア大使は、ワッハーブ派の運動のことを「ワッハービー・ジャコバン」と形容するようになった。ワッハーブ派のイデオロギーは現在のサウジアラビアの厳格な宗教社会を性格づけている。
アイキャッチ画像はドラクロワ『民衆を率いる自由の女神』1830
https://www.y-history.net/appendix/wh1201-053.html

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