イスラム・スペインとの出逢い

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Translation / 翻訳

 8世紀初めにスペインの大部分はイスラム支配の下に置かれ、1492年のレコンキスタの完了でムスリムたちはスペインのイベリア半島から一掃された。スペインのフラメンコも元々はイスラム教徒のムーア人がもたらしたものとされる。確かにベリーダンスでも、またフラメンコでも扇子が使われる。  「コーランと剣」というのは、特にヨーロッパ・キリスト教世界の側から強調された表現だが、イスラムが拡大していく過程でアラブ・ムスリム軍が求めたのはイスラムに改宗するか、改宗せずにイスラム共同体に税を払うか、あるいはイスラムと戦うかという選択であった。しかし、イスラムがその信仰地域を拡大したのは、キリスト教世界にあった階級的な価値観を否定し、神の前の平等を唱えたことが大きい。

ペネロペ・クルスのように見えるが・・・
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 イスラムの「剣」のイメージは自称「イスラム国」ISが日本人人質を殺害したことを契機に日本ではさらに強まったかもしれない。作家の堀田善衛氏(1918年~1998年)はその著書『ゴヤ』の中でイスラムの寛容性についてスペインを例にして下のように述べている。

「ところで、このアラブ・イスラム時代のスペインについて、であるが、イスラム教というものについても、われわれには一つの先入観がこびりついているように思われる。

スペイン・コルドヴァのメスキータ(モスク)
https://www.pinterest.com/pin/498914464944728178/

 それは、いわゆる片手にコーラン、片手に剣という言い方に象徴される不寛容さについてである。

 しかし、この不寛容さ、あるいは好戦性は、少なくともスペインに入ったイスラムに関する限り、ある時期を限って言えば、これは誤りである。モサベラと称される、イスラム王朝下にあったキリスト教徒が迫害をうけたことはあったにはあったが。スペインのイスラム王朝には武断専制の風はなかった、彼らはローマの遺産を破壊しなかったように、教会を攻撃することもなく、西ゴート族のように掠奪や放火、破壊を事とすることもなかった。

アルハンブラ宮殿
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 そればかりではなく、たとえばコルドバのウマイア・カリフ王国は、はじめは聖ビサンテ教会と平和裡に交渉をして、この教会の建物の半分ほどを買い取って、そこで彼らの礼拝を行ったというのが歴史を象徴するかのように、まず第一にローマ人によってヤーヌスの神殿として建てられ、その遺跡に、後期ローマとビザンチン様式で建てられたものであった。ここで40年間ものあいだ、常識的には二つの相容れぬ宗教とされていたものが、平和裡に共存していた。すなわち、聖書とコーランは、同じ建物を共用していたのである。

 その後の歴史が示すように、このような共存共用は人類の歴史でもまことに稀な例と言うべきものであろう。そうして現在ある、しかも現在も、メスキータ(回教寺院)と呼ばれているカトリックの大聖堂は、モーロ人(ムスリム)支配層が追い払われての後に、もう一度念の入ったことに、新たに真ん中をくりぬいてカトリック教会を作り込んだものである。」

アルハンブラ宮殿
http://www.historylines.net/img/Desktops/big/Alhambra_2.jpg

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