「ビルマの土は赤い 岩もまた赤い」
これは、市川崑監督の「ビルマの竪琴」(1956年、原作:竹山道雄)の冒頭と最後にテロップとして流される表現で、ビルマ(ミャンマー)で犠牲となったおびただしい数の兵士たちが土に還っていく様子を表現しているかのようだ。日本軍の水島上等兵は仏教僧となり、戦友の遺骨と埋葬のために日本に帰国しないことを決意する。

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無念のうちに異国のビルマで亡くなった戦友や、日英の戦争の犠牲になった無辜のビルマ市民、また戦没したイギリス軍の将兵たちを弔いたいという思いが水島上等兵にはあったのだろう。日本軍とビルマで戦ったイギリス軍兵士たちにはイギリス帝国主義に反発しながらもイギリスに協力することで戦後のインド独立を考えていたインド人が数多くいた。
日本兵たちが合唱で心を合わせながら水島上等兵のことを気遣い、また「埴生の宿」を歌いながら日英の兵士たちが心を通わせるシーンもあった。戦争の虚しさや悲惨、また戦死した者に対する鎮魂の想いを描いた作品で、のちにリメイクされるほど日本人の間で多くの共感を生んだ。
ビルマでのおびただしい戦没者たちは無責任な戦争指導者たちの犠牲となったというしかないほど気の毒だった。水木しげる氏の『コミック 昭和史』には戦死者3万人を出したインパール作戦について「補給の問題を軽視し、最上層指揮官の個人的名誉欲が一般将兵の大量の命を犠牲にするという旧日本軍特有の欠陥をもっていた」と書かれてある。そこには、この無謀な作戦を立案、指示した軍上層部への怒りが込められているようだった。

2014年2月
インパール作戦の指揮をとった第15軍の牟田口廉也司令官は「補給が至難なる作戦においては、特に糧秣、弾薬、兵器等、いわゆる“敵の糧による”が絶対に必要である」と語り、作戦は最初から敵の食糧、弾薬をあてにしていた。作戦が困難になるに従って、現地で戦う第33師団師団長柳田元三中将は「至急適切なる対策を講ずるの要ありと認め、忍びがたきを忍びてあえて意見を具申す」と窮状を訴えたが、「適切な対策」をとることなど当初から視野などになかった。
インパール作戦から1年余り日本軍はビルマに駐留することになるが、8月15日に放映されたNHKスペシャル「ビルマ 地獄の戦場」では、日本軍がインパール作戦後、インパール作戦をはるかに上回る10万人以上の戦死者を出したことが紹介され、軍上層部のさらなる無責任ぶりが明らかにされていた。インパール作戦後の戦死者は、ビルマでの戦死者の実に8割近くだった。インパール作戦失敗後、兵員、武器・弾薬が十分でないにもかかわらず、日本軍は田中新一参謀長の意向で首都ラングーン(現在のヤンゴン)を離れて北上し、イギリス軍を迎え撃つ無謀な作戦に出る。田中参謀長は「戦史の教訓にもとづき悲惨な時ほど強硬に押さねばならない。こちらが苦しい時は向こうも苦しいのだから押すのが将の務めだ」と主張したが、敗戦後はイギリス軍の聴取に対して「日本軍がイラワジ河の防衛線を無期限にもちこたえられるとは思っていなかった。だがラングーンを防衛し続けるための時間を稼ぐことはできると考えたのである。」と答えている。

「タナカ」を塗った少女
2014年2月
兵士たちが最前線で戦う中で高級将校たちはラングーンの料亭で芸者たちとともに、宴席をもっていた。前線の少尉は「芸者を中心とした高級将校の乱脈ぶりは目を覆うものがあった。」と怒る。また戦局が著しく不利になると、司令部は兵士や民間人たちを残して飛行機でタイに引き揚げてしまう。その決断をしたのは木村兵太郎・ビルマ方面軍司令官(元陸軍次官、東京裁判でA級戦犯として処刑)だった。ラングーンには市民たちが取り残され、市民たちは反乱軍によって殺害されたり、防衛隊として守備を命ぜられ戦死したりした。
イギリス軍司令官ウィリアム・スリム・イギリス軍第14軍司令官「日本軍指導者の根本的な欠陥は『道徳的勇気の欠如』であった。自分たちが間違いを犯したことを認める勇気がないのである。計画が失敗し、練り直しが必要であることを認める勇気がないのだ。」と日本軍の欠陥的体質を指摘している。
この無責任ぶりは現在も続いていないだろうか。「地球の裏側にまで自衛隊を派遣する」と言って平和安保法制が成立したが、この法制に賛成した議員たちは生活環境が著しく悪く、危険な戦域に派遣される自衛隊員のことを考慮しただろうか。ちなみに18歳の女性との飲酒が問題になった吉川赳議員は平和安保法制に賛成している。
アイキャッチ画像は https://www.nikkatsu.com/movie/20095.html より
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