来年のプロ野球日本ハムの監督に新庄剛志氏が就任する。11月4日の会見では、さっそくその破天荒ぶりを発揮し、「監督」ではなく「ビッグ・ボス」と呼ばれたいなどと語っていた。「チームに投手3人、野手4人のタレントを作り上げていけば、楽しいチームになる。タレントとは、全国に名前も背番号も顔も覚えてもらえているということ。(そういう選手が増えれば)その時は、もう、チームが強くなっている」とも述べたが、高校野球のスターだった清宮選手や吉田輝星投手などが期待されたように活躍すれば、日本ハムは楽しいチームになり、思わず応援したくなるだろう。
新庄氏は細やかな感情の持ち主でもあるようだ。日本ハムの現役時代は、イラク南部のサマワに派遣されていた陸上自衛隊第二師団の家族を札幌ドームに招待していた。2004年4月29日付の『四国新聞』には、自衛隊の家族100人を招待していたとある。引率役の自衛隊員も「家族はストレスや不安を感じることが多い。声援を出すことで少しは解消できるでしょう」と語るなど、当時治安が悪かったイラクに派遣されていた家族を思いやる優しい配慮を見せていた。
このエピソードに触れて、イランの涙壺の由来を思い出してしまった。作家の五木寛之氏は、イラン・イスファハーンで小説「燃える秋」の物語の発端を考えたそうだ。五木氏は、イスファハーンのバザールで「涙壷」という紫色の不思議な形をしたガラスの壷を購入したという。涙壷は、戦争に出た恋人や夫、また息子を偲んで、悲しむ女たちが涙を溜めた壷といわれている。

作家の瀬戸内寂聴さんは、「愛する人と別れること、愛する人が殺されること。それが戦争です」と語るが、戦争に行った愛する人の無事の帰還を祈ってペルシアの女性たちが涙を溜めた涙壺のエピソードはそうした戦争の悲劇を表している。
瀬戸内寂聴さんは2019年8月20日の朝日新聞で、「戦争を知らない政治家ばかりになった。戦争をしたら子どもや孫が引っ張り出される。その想像ができない。命ある限り、戦争の恐ろしさを伝えなければ」と語るが、政治家ばかりでなく、論壇でも徴兵制こそが平和を維持するなどと発言する国際政治学者がいるところを見ると、世の中全体から戦争に対する想像力が希薄になっているように思う。

瀬戸内さんは、日本が戦争に負けて正しい戦争だと信じてきた自分の愚かさを悟り、これが自身の「革命」だったという。
瀬戸内さんは、1991年の湾岸戦争では戦争に反対して釈迦の教えである「殺すなかれ、殺させるなかれ」という張り紙を寂庵(瀬戸内さんのお寺)に出し、8日間の断食をしてイラクに医薬品や牛乳などの支援物資を届けに行ったことがある。
湾岸戦争は、サダム・フセインのイラクがクウェートを侵攻したことを契機に始められたものだったが、アラブ諸国の地域機構である「アラブ連盟」はアラブ諸国の交渉による解決を求めていたが、先代ブッシュ政権は軍事力でイラクをクウェートから駆逐してしまった。その湾岸戦争で、米軍がサウジアラビアなど湾岸諸国に駐留するようになったことが、アラブ世界からは反発されて、サウジアラビアにおける米軍の駐留に反対するオサマ・ビンラディンのアルカイダの活動をもたらし、結局アルカイダによる911の同時多発テロ、さらには「テロとの戦い」を唱えるブッシュ・ジュニアによるイラク戦争となった。またイラク戦争は、ISの誕生をもたらし、ISの活動は根強く継続するようになった。瀬戸内さんが危惧するような世界になってしまったということだろう。
イラク戦争は、戦争の大義であったイラクの大量破壊兵器も見つからず、正当な根拠がない戦争だった。安保法制で集団的自衛権が認められてしまったが、日本の政治家たちは、自衛隊員の家族が正当性のない戦争に派遣されて寂しい思いをするようなことがないようにしてもらいたいものだ。
平和を希求する中で瀬戸内さんが口にするのは伝教大師・最澄の「忘己利他(もうこりた)」という言葉だが、「『もう懲りた』ではない」と冗談をいう中で、その言葉の意味を「自分の損得や幸せになりたい気持ちは置いておいて、他の人が幸せになって得をするように努めなさい」と説明する。中村哲医師などはこの「忘己利他」の実践者で、このような想いこそ確実に平和を創造する主体となるものだ。

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