フランスではコンサートのチケット発売とともに、即座に完売となるほどの「神話」がある歌手のバルバラ(1930~97年)は、父親がアルザス出身、また母親はウクライナのオデッサ出身で、ヨーロッパのナショナリズムのせめぎ合いを強く感ぜざるを得ない家庭環境で育った。
1964年にドイツの都市ゲッティンゲンを訪問した時の印象を基につくられたバルバラの曲「ゲッティンゲン」はBBCの記事でも「歴史をつくった歌」と形容された。1967年にゲッティンゲンでバルバラのコンサートを聴いたドイツのシュレーダー元首相は、2003年1月22日、エリゼ条約40周年記念式典で、「この歌がドイツとフランスの素晴らしい友好関係の始まりとなった」と称えたが、この融和と平和の精神が同年3月に始まるイラク戦争に両国が足並みをそろえて反対することになった。エリゼ条約は、2度の大戦を含めて100年の間に3度の戦火を交えたドイツとフランスの和解を目指して、両国の協力関係を定めたもので、1963年に調印された。

エリゼ条約40周年の記念式典で(2003年1月)
https://www.cvce.eu/en/obj/jacques_chirac_and_gerhard_schroder_40th_anniversary_of_the_signing_of_the_elysee_treaty_23_january_2003-en-0caeebf9-c340-4691-8da0-407c0d670483.html?fbclid=IwAR1i64yEaCwt7PecPaCqtzf-GlESPJxt0-hy0zz3ZSOe-6mxyouQHGG6Ma0
「もちろん、私たちにはセーヌ川がある
それにヴァンセーヌの森も
でもまあ、このバラのなんと美しいこと
ゲッティンゲンのバラ ゲッティンゲンのバラ
子どもたちは同じ パリでも ゲッティンゲンでも
流血と憎悪の時代に
二度と決して戻りませんように」
フランスであろうとドイツであろうと、子供たちは子供たちなのだと彼女は語っている。ユダヤ人であった彼女はナチス・ドイツのフランス占領もあって、アンネ・フランクのように、家族とともに身を隠して暮らさなければならない子ども時代を送った。

https://www.flickr.com/photos/47995816@N07/4401450010/
アルザス地方は、ドイツとフランスがその支配を奪いあったところで、神聖ローマ帝国支配下にあったが、1848年のウェストファリア条約でフランスの領土となった。ドイツの宰相ビスマルクは1870年に普仏戦争を起こし、鉄と石炭の豊富なアルザス・ロレーヌ地方をフランスから奪い、ドイツ資本主義の発展に役立てた。第一次世界大戦でドイツが敗れた結果、再びフランスの領土になり、1940年にナチス・ドイツが占領し、戦後再びフランスの主権の下に置かれて、現在に至っている。

ワインがおいしいところでもあります
http://eliserose.blog.fc2.com/blog-entry-2.html?sp
2015年11月13日のパリ同時テロの追悼式典の中でバルバラの「ペルランパンパン」が鎮魂の歌としてソプラノ声楽家、ナタリー・ドゥセーによって歌われた。「ペルランパンパンPerlimpinpin」は本来「インチキ、いかさま」といった意味で、昔、香具師が売ったインチキ万能薬を「poudre de perlimpinpin」といった。
バルバラの「ペルランパンパン」の歌詞は下の通りだ。
誰のために、どのように、何時、なぜ?
誰に対して?どんな風に?何に対して?
あなた方の暴力はもうたくさんよ?(中略)
銃の先で死ぬ子どもは
死ぬ子どもに変わりないのだから
二つの無垢な存在のどちらかを
選ばなければならないなんて、なんてひどいこと!(後略)
フランスのオランド大統領は「みなさん全員におごそかにお約束します。フランスはこの罪を犯した狂信者たちの軍を破壊するためにあらゆる手段をつくし、後退することなくフランスの子どもたちを守るために対処します。」と語り、シリアに報復空爆を行ったが、フランスの子供を守るために犠牲になるシリアの子供たちを忘れているようだった。同様に、ウクライナ戦争で、犠牲になっている子供たちがいることをロシアのプーチン大統領は思い起こすべきだろう。
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