キューバにアラブ社会があることは日本ではあまり知られていない。キューバに「アラブ」がやって来たのは、コロンブスの「新大陸発見」の時期で、彼は1492年10月28日にキューバをスペイン領と宣言した。キューバではアラブ・イスラム文化は料理のアロス・モロ(ムーア人〔イベリア半島や北西アフリカのムスリム〕のご飯の意味。黒豆ご飯。)や建築のムデハル様式(スペインのレコンキスタ後に、スペインに残留したムスリムとクリスチャンの建築様式を融合したもの)などに見られるが、これらのアラブ文化はスペイン領になるともち込まれたものだ。
「アロス・モロ」の黒豆はムーア人を、また白飯はクリスチャンを意味し、建築のムデハル様式と同様にイスラム文化とキリスト教文化の折衷を象徴的に表しているという。ムデハル様式の建築物は多くがスペイン人の職人によって17世紀につくられたが、そこでは意識しなくてもアラブ的要素が採り入れられた。キューバには、フラメンコとベリーダンス、そしてキューバ・ダンスを混ぜたような踊りも見られる。
キューバに独特なグアヤベラ・シャツの起源にもアラブ人たちの貢献がある。グアヤベラ・シャツは、開襟で、左右の身頃を縦に走るタックや刺繍があり、両胸、あるいは両脇にポケットがあるが、カストロたちの革命以前、キューバのアラブ人たちは織物業で中心的役割を果たしていた。

近世、近代になっての移民もあるが、アラブ人たちがキューバに容易に同化したのは、20世紀のキューバ政府が移民に排他的ではなく、移民労働を必要としていたからだ。オスマン帝国の混乱で、1860年から特に第一次世界大戦中やその後にかけてレバノン、パレスチナ、シリアのクリスチャンたちがキューバに移民してきた。多くのアラブ移民たちは、行商、貿易商として、米国が所有する工場などで働くようになった。
キューバ独立戦争の英雄で、1895年に戦死した詩人のホセ・マルティによっても19世紀のエジプトやモロッコにおける植民地主義支配への抵抗運動は強く意識され、1893年にモロッコ北部で反スペイン暴動が起こると、マルティは「ムーア人になろう!」と呼びかけた。

キューバ ハバナのコンサート ホール
アラビア語が見える
https://www.arcgis.com/apps/Cascade/index.html?appid=6f0b60d3442d484f8480d5e7f87adb7b&fbclid=IwAR0k5I968dhy70QB0PlE6IMhhg-c6jPB7nYEUP8OiFspwwlG88QMM9sBMgo
キューバは、1947年の国連パレスチナ分割決議案、つまりイスラエル国家の成立にも反対した国だった。キューバの反対は、法律家だったエルネスト・ディーゴ国連代表によって表明された。ディーゴはバルフォア宣言や国連の分割決議案には何の法的根拠がなく、また先住のパレスチナ人たちの権利を擁護せず、シオニストの入植者植民地主義は強制によって先住の人々の土地を奪うものであると主張した。

アナ・デ・アルマス
https://www.goldenglobes.com/articles/ana-de-armas-cuban-actress-whos-taking-hollywood-storm?fbclid=iwar2hxwybobeyl9sbtclrufg8qtomiwedgd5bnsqlspc6cc6zjracs3feukg
キューバの主張は、パレスチナ問題の本質を突くものといえるが、現在ではイスラエルは先住の人々の土地や家屋をごく平然と奪うようになっている。スペインの植民地主義に抵抗して、独立したキューバだからイギリス帝国主義によるバルフォア宣言や、シオニストの植民地主義は許容できなかった。イスラエル国家成立に反対したキューバの姿勢はその民族自決運動の遺産によるものだった。
アイキャッチ画像:キューバのこういう建築様式はアラブ・イスラム的ですね
https://www.arcgis.com/apps/Cascade/index.html?appid=6f0b60d3442d484f8480d5e7f87adb7b&fbclid=IwAR0rVuz4Db6X4wYJGXFFZFIkHCNGz-MWJwlpP8mAxlA02qW9nep1WNvSJy0
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