もう一つの911 ―1973年9月11日、米国CIAはチリのアジェンデ政権を打倒した

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Translation / 翻訳

 今日は2001年9月11日の同時多発テロから21年、ニューヨーク州では、9月11日が「9/11リメンバランスデー」(September 11th Remembrance Day)と定められている。


 2016年のカンヌ映画祭で最高賞であるパルムドールを「わたしは、ダニエル・ブレイク」(2017年3月18日公開)で受賞したイギリスのケン・ローチ監督は、映画「11’09”01/セプテンバー11」(2002年に製作されたオムニバス映画)でアメリカの同時多発テロが発生した日と同じ1973年9月11日に米国の支援で発生したチリの軍事クーデターを取り上げている。

アマゾンより


「世界貿易センタービルのテロ事件による死者数はおよそ3000人で、確かに大変多くの人々が命を落とした。しかし、チリのクーデターでは、チリのサンチャゴ・スタジアムだけで3万人以上が虐殺された。これに関して何の式典も行われず、涙も流されず、どのような国際的な機関も団体も、この犠牲者を悼んでいない」(ケン・ローチ監督)

サンチャゴに雨が降る (1975)
https://movies.yahoo.co.jp/movie/9334/


 チリでは、CIAは1973年にアジェンデ政権を打倒するクーデターを画策し、ピノチェト独裁政権に道を開いた。ピノチェトは17年間統治を行い、チリではその統治の下で3、200人の人々が殺害されるか、行方不明となった。ピノチェト政権時代下では、拷問は日常茶飯事となり、28、000人が拷問による取り調べを受けたとされる。


 現在、米国が対立するイランでもチリと同様にCIAの介入によるクーデターが1953年8月に行われ、国王独裁体制への道を開き、イランに根強い反米感情の端緒となった。


 イランでは1951年に民族主義者のモサッデグ首相がイランにおけるイギリスの石油施設を接収し、国有化したが、このモサデッグ政権を転覆し、アメリカはイランの石油利権に絡むことを考えた。
 1953年8月19日、モサッデグ政府崩壊を意図するCIAの計画が実行に移され、国王派の軍隊とCIAの資金によって買収されたテヘラン南部の貧民層によるクーデターでモサッデグ政府は崩壊する。

イラン 1953年8月19日のクーデター https://warontherocks.com/2020/07/penny-wise-pound-foolish-the-iranian-coup-of-1953/


 この事件によって国王の独裁的支配体制への道が開かれ、またアメリカ企業もイラン石油の権益を手にすることができた。だが、このクーデターは多くのイラン人の反米意識をもつ契機となり、「反米」をスローガンとするイラン革命をもたらした一要因ともなった。


 モサッデグ政権が倒れた後、権力を強化することにモハンマド・レザー・シャー・パフラヴィー(在位1941~79年)もイラン古代のアケメネス朝(紀元前559~330年)時代の「王の目、王の耳」という監視制度を真似て、アメリカのCIA、イスラエルのモサドの支援を受けてSAVAKという秘密警察を1957年につくりあげ、反体制派の摘発と過酷な拷問にあたらせた。イラン反体制派に関する情報収集はCIA自身も行っていたとされる。1976年に国王は3000人の政治犯がいることを認めたが、911は米国の介入政策を思い起こす日でもある。
アイキャッチ画像はロレンツァ・イッツォ
チリ出身の女優、モデル
https://www.pinterest.jp/pin/564287028290023586/

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