8月に米軍が撤退し、タリバンが政権を再掌握してからシーア派に対する暴力が頻発するようになり、またタリバンは女性の権利を極端に制限するようになったが、女性の権利の制限の背景にはタリバンの出身民族であるパシュトゥン人社会の伝統や価値観がある。

10月にアフガニスタンでは150人近いシーア派の人々が殺害された。10月8日、北東部クンドゥズ州のサイイド・アーバード・モスクでISKP(「イスラム国ホラサーン州」)の自爆テロがあり、72人が死亡し、また10月15日には南部カンダハルのビービー・ファーティマ・モスクで同様に自爆テロが発生し、63人が亡くなるなどシーア派への暴力が顕著になっている。
ISKPは、シーア派を異端としてバグダッドからホラサーン州(元々はイラン東北部を指す言葉)までのシーア派の殲滅を唱えている。ISKPはイスラムの多数派を構成するスンニ派の組織だが、シーア派はイスラム共同体の最高指導者(シーア派では「イマーム」と呼んでいる)は預言者ムハンマドの血筋を引くものでなければならないと考える。シーア派では歴代イマームの墓廟を聖地とするなど、スンニ派から見れば偶像崇拝とも思われる宗教慣行がある。とかくわかりにくいとされるスンニ派、シーア派の相違だが、シーア派は王朝的な考えをし、それ以外がスンニ派と考えれば理解しやすい。

アフガニスタンでシーア派を信仰するのはモンゴロイド系の民族で、中部山岳地帯に居住するハザラ人で、全人口の10%ほどだ。アフガニスタンの社会の中では他の民族からは蔑まれた存在で「鼻ぺちゃ」などとも形容され、経済的にも決して豊かではなかった。
アフガニスタンのスンニ派の主要な民族にはまずパシュトゥン人がいて、全人口の40%を構成し、スンニ派イスラムを信仰する。軍事的に勇猛であることで知られ、1838年から1842年にかけての第一次アフガン戦争でアフガニスタンに侵攻したイギリス軍を撃退、駆逐したのはパシュトゥン人たちだった。
2番目に人口が多いのは、タジク人で、ペルシア語を話し、スンニ派の信仰をもち、アフガニスタン全人口の30%を構成する。スンニ派信仰という共通性で、パシュトゥン人との間でさほど大きな軋轢はない。3番目に多いスンニ派人口はウズベク人で、北の隣国ウズベキスタンやトルクメニスタンに接するように居住している。
1978年4月にアフガニスタンで人民民主党(共産党)の政権が成立したが、アフガニスタンではそれ以前は中央政府の権限は大都市を越えて及ぶことはなかったが、人民民主党政権が保守的な地方にもマルキストのイデオロギーの教化に乗り出していくと、アフガニスタンの多くの地域で反発が起こり、ムジャヒディン(「イスラムの聖なる戦士」の意味)の武装抵抗運動が政府やソ連軍に対して繰り広げられていく。
ウズベク人地域では、政府軍を構成するラシード・ドスタム将軍がウズベク人ムジャヒディンを制圧し、ハザラ人ムジャヒディンもソ連軍との宥和を図る傾向が強かったが、それに対してパシュトゥン人やタジク人のムジャヒディンたちは頑強に抵抗していった。ソ連軍は主にカブールなど大都市でマイノリティの権利を尊重し、女性たちの権利を擁護する政策を追求したが、それはパシュトゥン人など地方のアフガニスタン人にとっては見知らぬ、不慣れなことだった。
1989年にソ連軍が撤退し、アメリカの軍事援助が停止すると、ムジャヒディンたちは軍閥化して独立的な地位を築くようになる。軍閥たちは、その影響範囲、麻薬生産、密輸ルートや恣意的な課税対象範囲などをめぐって互いに抗争していくようになり、泥沼の戦闘を繰り広げていったが、そこで登場したのがタリバンで、安全や安定、伝統的価値観の復活を願う地方のパシュトゥン人社会の支持を得て、首都カブールをはじめアフガニスタンの大部分の地域を支配するようになった。首都カブールを制圧すると、地方の保守的価値観の中で育ったタリバンの指導者たちは、カブールの女性たちが社会参加する姿に強い違和感をもち、女性の服装や行動に強い規制や制限を加えるようになった。
2001年10月に米英軍などがアフガニスタンに対する攻撃を開始し、11月にタリバン政権を崩壊させると、アメリカはタリバンの出身民族であるパシュトゥン人よりもタジク人、ハザラ人などを優遇し、また女性の権利の拡大が見られた。2004年頃からタリバンは再結成され、米軍など外国軍への抵抗を本格化させると、その戦闘の舞台であるパシュトゥン人地域は戦禍を被ることになり、経済的にも疲弊し、また外国からの援助の恩恵に預かることも他の地域よりもはるかに少なく、それもタリバン支持の背景となっていった。
2014年にイラクで「イスラム国(IS)」が実際に支配を開始すると、アフガニスタンでもその活動の影響を受けるグループが現れ始め、ISKPとして活動するようになった。そのメンバーはタリバンからの脱党者や、イラクやシリアでISの活動に参加していた中央アジア出身者たちなどで、アメリカと交渉するタリバンの姿勢を「軟弱」と考え、タリバンと反目するようになった。
8月に政権を掌握したタリバンの指導者たちの多くは、アフガニスタンやパキスタンの地方の保守的な神学校の出身者たちで、地方のパシュトゥン地域の秩序復活を考えている。彼らは現代的な政治や行政の知識はあまりない人々だ。タリバン新政権の閣僚のうち、非パシュトゥン人は3人のタジク人しかいない。前回のタリバン政権を承認したのは、パキスタン、サウジアラビア、UAEのわずか3カ国だったが、国際的感覚に乏しく、パシュトゥン社会の価値観に拘泥し、女性の権利を制限し続けると、タリバン政権が承認されるにはかなり厳しく、険しい見通しがあると言わざるをえない。また、経済的にもアフガニスタン国民の満たされた生活を実現できないようだと、ISKPによるシーア派やタリバン政権への暴力が席巻するようになるだろう。
コメント
楽しみにしております。
どうぞ宜しくお願い申し上げます。
いつも貴重なお話を惜しみなくご教示くださり、誠に有難うございます。いつも楽しみにしております。
ますますのご活躍をお祈りしております。
有り難うございます。引き続きよろしくお願いいたします。