愛と寛容を説き世界史に大きな影響を与えたアフガニスタン出身の詩人ルーミー

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 愛と寛容を説き、世界史に最も大きな影響を与えたアフガン人と言えば神秘主義者であり詩人でもあったメヴラーナー・ジェラーレッティン・ルーミー(1207~73年)だろう。旧政権時代の2007年は、ルーミー生誕800年にあたった。在日アフガニスタン大使館のウェブページでは、ルーミーが生まれたバルフ州のルーミー研究者は、「(戦乱時代となる)40年前、人々の経済状態は良かった。夏の間食料を集め、冬にはそれを食べていた。冬の間は、やることがなかった。人々はモスクに集まり、Mawlana(ルーミーのこと)の詩を歌った。」と語っている。


「空が愛の中になければ、このように澄み切っていないであろう。太陽が愛の中になければ、光を与えることはないだろう。川が愛の中になければ、沈黙し、動くこともないだろう。山や大地が愛の中になければ、成長するものはないだろう。」(ルーミー)


 ルーミーはアメリカでもベストセラーの詩人となり、その精神世界はマドンナやブラット・ピットにも支持され、マドンナにはルーミーの説く愛に影響される「A Gift of Love」というアルバムがあり、ブラット・ピットの体にはルーミーの詩のタトゥーがある。

マドンナたちが読んだルーミーの詩のアルバム


 ルーミーは、ペルシア文学史上最大の神秘主義詩人と言われている。モンゴル勢力による戦火を避けるため、家族は何年にも渡る放浪生活の末、最終的にアナトリアのコンヤ(現在のトルコ)に住み着いた。1995年は「国連寛容年」とされ、「寛容とルーミー(Tolerance and Rumi)」と題するルーミーの生涯に関するドキュメンタリーフィルムが制作されるなど、ボスニア紛争やルワンダ内戦を背景に人種や宗教を超えた寛容がアピールされた。


 イラン・イスファハーンが「世界の半分」と形容されるほどの栄華を誇ったサファヴィー朝時代(1501~1736年)の陶器やタイルなどの展示は頻繁にヨーロッパの博物館で見られる。17世紀までにヨーロッパ商人たちは競って、サファヴィー朝第5代王アッバースⅠ世(シャー・アッバース、在位:1588~1629年)が1597年から98年にかけて築いたイスファハーンを訪問した。アッバース1世は現在のアフガニスタンのヘラートに生まれた。彼は宗教的にも寛容で、ヨーロッパ・キリスト教の宗教使節も、旅行者などとともにイスファハーンにやって来た。アッバース1世は、ヨーロッパとの通商を奨励し、サファヴィー朝からは絹が主要な輸出品で、絨毯や織物も盛んに輸出され、ペルシアを経済的に潤すようになった。


 特にスペインやポルトガルのキリスト教宣教師たちが歓迎され、宣教師たちは教皇やスペイン、フランスといったキリスト教国との連絡役として期待された。イスファハーンはますますコスモポリタン的性格を強めていった。聖アウグスチノ修道会やカルメル会の宣教師たちは、サファヴィー朝の領内に修道院を設立することを許された。

アフガニスタン・バルフ
ホワジャ・アブ・ナスル・パルサ・モスク
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%95


 女子学生たちに黒いアバーヤ(ベール)を着用させるなど、タリバンの不寛容な政策が強調されがちだが、タリバンもアフガニスタンに残った外国軍への協力者たちを執拗に追い回して処刑することはないようだ。日本でも外国軍と謀ってその武力行使をさせた者は死刑に処する(刑法81条=外患罪)ことになっているが、これに従えば米英軍のアフガニスタン攻撃に協力した北部同盟の関係者たちは皆死刑となる。フランスでも戦後ナチス・ドイツへの協力者791人に死刑が実行された。タリバンに求められるのはルーミーやアッバース1世が説いた愛と寛容の政策で、国民に対する教条的な施策はアフガニスタンの精神風土に合致しないことを認識してほしいものだ。

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