静岡県島田市で「レシャード医院」を開業するアフガニスタン人医師のレシャード・カレッドさんは、911の同時多発テロを受けて2001年10月に米国などによるアフガニスタン攻撃が始まると、2002年4月にNGOの「カレーズの会」を発足させた。「カレーズ」とはアフガニスタンの言葉で「命の水」「癒やしの源」などの意味で、アフガニスタンでは地下用水路の名称としても用いられている。カレーズの会の診療所はアフガニスタン南部のカンダハル郊外に置かれた。当時のカンダハルは、住民100人につき、医師1人という状態で、診療所を開くと、1カ月で600人もの患者がやって来た。無料の診療費と薬剤費は日本からの支援によってまかなわれた。

レシャードさんが日本に留学したのは、日本の文化や戦後復興に関心があったからだ。京都大学医学部に入学する前に千葉大学の留学生部に入り、日本語や大学教育のための基礎知識を学んだ(現在ではこの制度はない)。外国人に留学生のための下宿を提供する家庭がなかなか見つからなかったが、ある老夫婦の家にようやく下宿することができた。この老夫婦たちは大変親切な人たちで、レシャードさんに日本語の会話を教えてくれたり、日本料理をつくってくれたりしたという。老夫婦がなぜレシャードさんに親切だったかというと満洲からの引き揚げの際、命の危険まであった時に、中国人のおばあさんがかくまってくれて、日本行きの船に乗せてくれた。そのおばさんとは連絡先もわからず別れてしまい、恩返しもできないので、この恩は困っている人に分け与えたいと思ったのだそうだ。
1979年にソ連軍がアフガニスタンに侵攻すると、日本人の老夫婦に受けた親切を思い出しながら、パキスタンのアフガニスタン難民キャンプに医療器具や薬剤をもって出かけた。

2001年に911の同時多発テロが起こると、カンダハルでは700人の宗教指導者や部族のリーダーたちが「ジルガ(会議)」を開いてオサマ・ビンラディンの自発的な退去と、米国の報復攻撃の自制も求めた。にもかかわらず、米軍はタリバン指導者のムッラー・オマルの故地であり、タリバンの拠点だったカンダハルを重点的に爆撃した。空爆は市民を巻き込むことになったが、カンダハルではカナダ兵157人が死亡するなど、多国籍軍に対する強い反発や抵抗があったのも、ジルガで示されたカンダハルの民意を無視して無差別な空爆を行ったことが背景にあったにあったに違いない。
トランプ政権は米軍をアフガニスタンから完全撤退させたい意向だが、戦争の当事者がアフガニスタンの安定がない中で撤退するのはきわめて無責任だ。米国が社会・経済的的再建などアフガニスタンの安定のために十分な方策をとってきたとはとてもいえない。

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2012年9月にカンダハルを訪問した際にレシャードさんのお父さんはアフガニスタンで高名な詩人だと聞いた。その作品の中に次のようなものがある。
「ある地域の有力者からその土地特産のハサミを受け取った中央アジアの王は『ハサミの機能は物を切ることであり、裂くことです。このようなものは人間と人間の信頼と絆さえも切ることになる可能性があります。我々は切れるハサミより人々の心をつなぎ合わせることのできる針と糸が欲しいのです。それによってさらに友情が増し、互いを尊敬し合い、それぞれの立場を尊重し合うことができるようなものとしたいのです。』と語る。」
米国は「ハサミ」の関与でアフガニスタンの暴力を制圧しよとしたが、日本はレシャードさんや中村哲医師のように、「針と糸」の関与を継続してほしい。
アイキャッチ画像は往診先で患者と握手を交わすレシャードさん=島田市内で2016年10月、松岡大地氏撮影、毎日新聞より
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