トレドで11世紀に活躍した天文学者・数学者のアッ=ザルカーリー(ラテン名:アザルキエル:1028~1087年)は、16世紀までヨーロッパでもナビゲーターとして広く使用されていたアザフェア(アラビア語名:アルサフィーハ)を発明した。ザルカーリーが惑星の軌道が円形ではなく、卵形であることを示唆したことは、ヨハネス・ケプラー(1571~1630年)の楕円軌道の法則の発見を予感させるものだった。ザルカーリーは様々な器具を考案して科学的な天文学の基礎を築いた。彼は、トレドの郊外で生れ、元々は金属細工師としての訓練を受けていた。彼の手による天文表である「トレド表」も当時はよく知られていた。ザルカーリーは、日本ではあまり知られていないが、特に幾何学と天文学で才能を発揮し、その豊富な知識と経験によって、天文学の第一人者となり、トレドがヨーロッパの科学研究の中心となることにも貢献した。

トレドは建築様式でも、「ムデーハル様式」というイスラム文化とキリスト教文化が混淆した寄木細工風の装飾や幾何学的文様に特徴がある様式が盛んであったように、各宗教が共存する街であり、また社会に自由な気風があり、後にアラビア語によって蓄積された学問的業績をラテン語に翻訳する一大事業が進められていった。
ザルカーリーが著したトレド表と暦は12世紀にクレモナのジェラルド(1114年頃~1187年)によってラテン語に翻訳され、キリスト教ヨーロッパ世界で数学に基づいた天文学の復活に貢献し、13世紀にアルフォンソ天文表に採りいれられた。アルフォンソ天文表はその名の通りカスティーリャ王アルフォンソ10世がつくらせたものだが、16世紀にコペルニクスの『天球の回転について』に基づくエラスムス・ラインホルトによる天体運行表『プロイセン表』が出るまでヨーロッパで最も一般的に使用された。

ザルカーリーが活躍していた頃のトレドは、宗教上の対立もなく、ヨーロッパでは最も安全な都市で、知の最先端を行っていた。
1085年にトレドがキリスト教徒によって支配されるようになると、多くのアラビア語文書がキリスト教徒の学者たちに利用可能となった。12世紀までにトレドはヨーロッパ全土からやってくる学者たちの研究の中心地となった。ドミニコ修道会やフランシスコ修道会は、ムスリムを改宗させる目的で、イスラムやアラビア語の研究にエネルギーを傾倒した。

作家の堀田善衛は次のようにトレドなどの学芸について記している。
「コルドバ、セビーリア、トレドは、ヨーロッパにおける初期ルネッサンスの、学問の中心であった。ヨーロッパの学者たちは、まずここでアラブ語に訳されたギリシャの哲学、科学などの諸学問を学んだのである。それらのアラブ語文献をラテン語に重訳することにはげんだのであった。ヨーロッパ文明の根幹をなすいくつかの説話、たとえばゲーテの『フアウスト』。シャイクスピアの「じゃじゃ馬ならし」、アンゼルセンの『裸の王様』などの原型は、すべてペルシャ、アラブから出てスペイン経由でヨーロッパに入ったものであった。・・・イスラム・アラブ、キリスト教徒、ユダヤ教徒の三者の、この平和な協力共存は、今日から考えてみても、何か夢のようなものとして見えて来るのである。」 堀田善衛著「ゴヤⅠ スペイン・光と影」

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