昨年10月に亡くなったザ・ドリフターズの仲本工事さんは、いかりや長介さんとの「ばか兄弟」コントや、志村けんの「バカ殿」コントでは小姓役で、志村けんとのプロレス技の絡み合いになるのがおかしかった。東京都に生まれ、両親はともに沖縄出身で、戦争中は沖縄に疎開したものの、母親の夢見が悪くて、いわゆる「沖縄決戦」になる以前に東京に戻ってきて命拾いしたと語っている。
https://bunshun.jp/articles/-/58217?page=3
「8時だョ!全員集合」では体操コーナーで軽快な身のこなしを見せて、決め言葉の「ハイ、ポーズ」が子どもたちの間で流行った。舞台でところ狭しと動き回り、タレントとは思えないほどの運動神経の良さが印象に残っている。仲本さんの個性は「ドリフ大爆笑」のスタジオ・コントよりも体をめいっぱい動かせる舞台で光ったように思う。来日したビートルズの前座演奏でも、ドリフターズは舞台の上で走り回り、仲本さんは怪しげな英語で歌い、「ロックンロール・トゥナイト」というフレーズを繰り返すのがおかしかった。最後のオチは加藤茶の「バカみたい」である。この動画は https://www.youtube.com/watch?v=o4pL7U13s98 にある。
ドリフターズが前座演奏を行ったのは、1966年7月1日の「昼の部」のビートルズ公演だったが、ビートルズの初来日はわずか5日間の滞在だった。

とあります。
ビートルズは6月29日に記者会見を行い、記者が「あなたたちは、すでに名誉と財産を得たと思いますが、次は何を望みますか?」と質問すると、
ジョン:平和
(記者団が爆笑)
ポール:ぼくも、平和。
ポール:原子爆弾を禁止しようよ!
ジョン:そう、原子爆弾の禁止!
https://hicbc.com/tv/ronsetsu/archives/2016/06/016400.html
どうやら日本の記者団はジョンやポールの発言が真面目なものとは受け止めていなかったようだが、ジョンもポールも本気で語っていたに違いないと思う。以前にも書いたが、ポール・マッカートニーは1965年6月18日にイギリスの哲学者のバートランド・ラッセルに会い、ラッセルからベトナム戦争がアメリカの既得権益のためにだけ戦われている帝国主義戦争であり、この戦争には反対すべきだという説明を受けていた。それ以前の1965年2月には米軍が北爆を開始するなどベトナム戦争が本格化していた。

ポール・マッカートニーがジョン・レノンにラッセルの話を伝えるとレノンも戦争に関心を持つようになり、その2年後の1967年に戦争を皮肉るコメディ映画「僕の戦争」に出演し、また「イマジン」「平和を我等に」など平和への想いを込めた楽曲を次々と作るようになった。ラッセルは、ポールやジョンの日本でのコメントのように原子爆弾の禁止を訴えた世界のオピニオンリーダーだった。
ジョージ・ハリスンが1968年につくった「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」も平和を説き、次のような詞が含まれていた。
世界を見れば、変化している事に気付く
僕のギターが静かに涙を流している。
どんな過ちからも、僕達は学んでいくべきなんだ
僕のギターが静かに涙を流している
(和訳はhttps://lyriclist.mrshll129.com/beatles-while-my-guitar-gently-weeps/ より)
ビートルズのこの曲が発表された1968年は、ソ連軍がチェコスロバキアの民主化運動「プラハの春」を軍事力で制圧し、フランスでは「5月革命」があり、大学の改革、ベトナム反戦、労働者の管理問題の改善が唱えられた。アメリカでは4月にキング牧師暗殺事件があった。この曲を作ったビートルズのジョージ・ハリスンは、世界にもっと愛があれば、過ちを乗り越えられると考えていた。
ビートルズが初来日し、ドリフターズが武道館の舞台を走り回った1966年あたりからビートルズの曲は世界情勢と無縁ではなくなり、平和と愛を説くものが含まれるようになり、ビートルズの反戦の情感が含まれるようになっていた。ある意味、ビートルズは戦争への反対を説く世界のオピニオンリーダーだった。
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